いくさじまた
清水朔さん「いくさじまた」(光文社)。 ご恵投賜りまして、拝読しました一冊です。
テーマとして取り上げられるのは、西南戦争!
西郷どんは出てこないぞ(ネタバレ)
西南戦争といえば、示現流と抜刀隊が斬り合い西郷隆盛が城山で腹を切って別府晋介が介錯して、みたいな「イメージ」があります。
しかし清水さんは、あえてそれらお約束の要素を取り入れず、決して中心地ではない「臼杵」という一つの地域に絞って物語を紡いでいきます。
逆巻く歴史の激流を安全なところから俯瞰するのではなく、巻き込まれた一地域まで視点を下ろしていく。地図の上で凸型の駒を動かすのだけではなく、その前線に立つ一人一人の目線から「戦」と向き合う。そういう道が、選ばれているのですね。
人の世に戦が起こる理由は様々ですが、そこに巻き込まれる理由は一つしかなくて、「起こってしまったから」なんですね。起これば巻き込まれるし、起こらなければ巻き込まれない。
巻き込まれる側には選択肢はありません。抗おうと逃れよう諦めようと、それは巻き込まれたことへの対処であり、巻き込まれていることには変わりないのです。
その避けようのなさを、僕らは最近も身をもって経験しています。小麦粉価格の高騰という形で。
蒙る被害の差をつけるのはひとえに地理的な近い遠いな訳ですが、中心地ではなくとも安全地帯ではあり得ないところに位置する臼杵は、戦争そのものがもたらす破壊に見舞われます。
しかし、清水さんはそんな臼杵の悲劇をただただ悲劇として描くことはしません。 巻き込まれる臼杵、破壊される臼杵を、それでも力強く清水さんは描きます。生命――生きようとする命をそこに宿らせるのです。
象徴の一つであろう台詞を引用します。
「臼杵は港町でございますよ。今も四国をはじめ近江、大坂ともやりとりがあるのですよ。そこから学べるものを学んで、したたかに強くなったのが臼杵、広くは豊後という土地なのです。人が好いだけで渡ってきたわけではございませんゆえ」
(P108)
この台詞を口にするのが、商人の息子である芳三郎なのも見事。巻き込まれた側が高らかに唱えることで、眩いばかりの輝きを放つのです。
七人の侍において「本当の勝者」として描かれた民衆の生命力を、勝ち負け以外の物差しで測りきった瞬間ではないでしょうか。
誤解なきよう付言しておくと、悲惨さにフォーカスし続ける物語がダメだ、と行っているのではありません。
最近読んだ「新・哲学入門」(竹田青嗣著、講談社現代新書)に、「ペシミズムの芸術は、生への深い挫折の確認によってこの挫折を癒すことがありうるのだ」という文章がありましたが、当にその通りで。ペシミズム(悲観主義)やシニシズム(冷笑主義)を通して弱者を描くことにより、逆説的な救いが読み手にもたらされるということは大いにあります。
ただ、この作品は原理的にそうなり得ない宿命を背負っています。
その宿命とは何か。色々表現を考えましたが、清水さんの許可を得た上で、あえて「ますらをぶり」という言葉を用います。
ますらを清水朔
勇壮な表紙、「薩賊」という強烈な言葉が踊る帯。そんな装丁にも現れている通り、登場人物たちの多くは「戦う者」として戦場に身を投じます。
そしてその「戦い」は、ただの「リアリティの追求」に留まらない、猛々しさとでも言うべきものを放っています。
艦砲射撃の際には弾道を計算する描写が伴う。刀で腹を割かれれば内臓が飛び出し、そこから湯気が立つ。主人公・煕の「半歩速い」太刀筋にも、しっかりとした理由が用意されている。
すなわち、兵器をその運用面まで踏み込んで描き、チャンバラではなくしっかり兵士の命を奪い、個人としての「強さ」にも確かな根拠を追求しているのですね。
この「戦」への向き合い方について、「なよなよとしていない」「弱々しくない」みたいに言い表すこともできなくはないかも知れませんが、やはり否定形ではなく正面から表現したい。
となると、やっぱり「ますらを」なのです。
そう、表現といえば。文章にも、この力強さは充溢しています。
僕が常々清水さんの作品に感じているものの一つとして、「フィジカルの描写に感じる身体性」というものがありまして。ちょっとナニヤラ構文みたいになってますが、でも本当にこう表現するのがしっくりくるのですよ。
照りつける日の暑さ、滲む汗。食べ慣れたのし梅の味わい、謎の秘薬の不思議な手触り。よく分からないものを触った後で、つい手近なもので拭きたくなるその感じ。拭いたのが人の服で怒られるという微笑ましいオチ――そんな感じで、五体五感に訴えかける表現が本作には沢山あります。
縷々と情緒を綴り美々しく飾り立てるのではないところも、より語義に近い形で「ますらをぶり」と呼べましょうか。
ミステリアスで格好いい素敵なお姉さんという最強属性(この言葉は許可を取らずに使ってしまった。ごめんなさいてへぺろ)を持つ穴井妙さんにさえ、その「フィジカル強者」ぶりは宿っています。情け容赦ない治療シーンをご覧あれ。
これだけの「血肉」が備わっているわけですから、戦という作用に対して生じる反作用は壮烈なものになります。
そしてその先に止揚される「生」は、哀しく散っていくのではなく、強く勇ましく立ち上がる他ないですよね~。と思うのです。
このしなやかさ逞しさは、新体操に打ち込んだ体育会系出身という経歴にその淵源が求められるのか。それともあるいは、清水さんにアプリオリに備わっている作家性と呼ぶべきものの一つなのか。
そういや「鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎」について、Twitterのスペースで「肉弾戦! 肉弾戦だよ! フハハハ!」と話してらっしゃったことがあったなぁ……(本当にフハハハと笑っていて、一緒にスペースしていた額賀澪さんに「魔王みたいな笑い方だな」と突っ込まれてました)
シン・清水朔に期待
長い時間をかけて、清水さんはこの小説を書き上げられたそうです。それを一冊の本として上梓することは、おそらくは作家として一つの区切りとなったことでしょう。
さあ、次はどんな物語を紡いでいかれるのか。楽しみでなりませんね! 遅筆遅筆と言わずに頑張ってほしいですよね!(ささやかな圧)