橋本長道さん「覇王の譜」(新潮文庫)。版元様よりご恵投賜り拝読しました。
誰でも読めて誰でも楽しい(誰でも書けるわけではない)
本作は、将棋という洗練されたルールと「戦法」を持つゲームを題材としています。
つまり将棋について知らないと敷居が大幅に高くなりハードルと化しかねないわけですが、橋本さんは巧みな文章表現でそのハードルを跳び越えさせてくれます。
具体的に言えば、「読み手一人一人が、自分に引き寄せて理解できるような書き方を常に工夫されている」のです。
ただただ実際に即した「リアリティ」を持ち込み、それを一方通行で提示し理解を迫るのではなく、ルールをよく知らない人であってもすらすらと読める形を目指す。
言うは易く行うは難しの見本みたいですが、それを見事に体現した手本というべき一作と言えましょう。
何しろ、本作はいきなりプロ棋士の対局シーンから始まります。しかも、一手六十秒以内で指さねばならない一分将棋という局面からのスタート。
その緊迫感を、橋本さんはシンプルにして秀逸な表現でこちらに伝えてきます。
「一分という時間は人間が正しい道を見つけのにはあまりに短い」
「一分将棋に過去は存在しない」
「今現在盤上で起こっていることをありのままに受け入れ、未来だけを読み続けるべきなのだ」
実に見事ですが、一方ただただ目先のピンチを次から次に繰り出すだけには止まりません。
「プロの将棋はスプリントではなく、長距離走なのだ」と言い表し、
簡にして要を得た解説を添えた上で、「持ち時間を使い果たしてしまった故に、一分将棋に追い込まれていること」も伝え、大局的な見方を促されます。
知らず知らずのうちに、将棋小説の読み方が身についていくわけです。
そんな状況に置かれているのが、主人公の直江大です。そんな彼の姿についても、この「局面」から浮かび上がってくるような仕掛けが施されています。
直江はまだ二十五歳ですが、十代で天賦の才を開花させる怪物がごろごろいる将棋の世界では、とても若者とは言えない模様。
押しのけられる側の人間であり、一分将棋はそのまま彼の置かれている立場でもあるわけですね。
対戦相手は早指し(文字通り一手一手を早く指すことを言う)が身上の若手棋士。
「早指しの棋士は若いうちは才能があるとみなされ、過大評価される傾向にある」けれども、「長期的に見れば、持ち時間に対する考え方を改めない限り、彼が上に突き抜けることはないだろう」。すなわち、本来そこまでの脅威ではない様子。
しかし「長期での勝率と短期での勝敗はそこまで強く関連しない」。短期視点ではスプリンターもまた手強いのです。
そして、「将棋の恐さを知らない若さ故の勢いが無言の圧力を放ち始めている」。若者の勢いは時に凄まじい瞬間風速を叩き出し、一時的にはあらゆる理屈を吹き飛ばすもの。
直江の苦しさが手に取るように伝わってきます。「手に取る」ように、すなわち主観的に体験できるわけです。
ではそれがなぜかというと、実のところ将棋以外の様々な物事に通じることばかりだからなのですね。何だったら「作家」にも当てはめられますし、それ以外の様々な世界にも共通して言えることではないでしょうか。
「主観」と「主観」の「間」を繋ぎ、橋を渡すことで、将棋盤の上で駒が起こす「現象」を伝える。見事なお手並みです。
駒を通じて交わされるのは
勿論、ただただ分かりやすく切り分けてくれるばかりではありません。
橋本さんの言葉の刃は、時に思いも寄らない太刀筋を読み手の眼前で閃かせます。
僕にとっては、「盤上で言い分を通し合う」という言い回しがそれでした。
響く駒音の向こう側で、激論が戦わされているのか! と。
「盤上で嫌味をつけて絡む」棋風の人がいたり(しかも京都人なのが面白い)、しばしば指し手同士の意思疎通が指した手で行われ、「力でやろうや」という挑発が伝わってくることもあれば、相手が「あの男を選ぶなら、俺にも考えがあるで」と将棋そのものに対して喧嘩を売る言葉を聞き取る場面さえあります。
無言で雄弁に語り合う。そんな矛盾でさえ、将棋盤という宇宙では成立してしまうようです。
人同士の対話的要素を含むが故に、必ずしも事前に着地点が設定されているとは限りません。
「思わぬ落とし穴」と「可能性の沼」が広がる世界で、時に「決めに行く手ではなく、局面をより複雑にさせる一手」を繰り出しもする。将棋とは、「人間と人間が生身で交わる泥濘」なのです。
先を全て見通しているのではなく、リアルタイムでドラマを起こしてもいる。だからこそ見る人たちもワクワクできるのだろうか、と思いを巡らしたりもしました。
ただし、その対話は一過性のお喋りではありません。「数百、数千のあり得たかもしれない局面を戦わせ」るものであり、指される手は「まさしく氷山の一角」である。「そして、見えない氷山の大部分も先人が積み重ねてきた将棋という海の中にある」のです。なんと奥深い世界であることか。
「材を取る」ということ
さて。最初に触れました「ただリアリティを提示するだけではない」スタイルですが、これは角度を変えながら物語の構成に活かされています。
AIの登場。新しいタイトル戦の立ち上げ。生々しい政治的なやり取り。将棋を取り巻く様々な要素を物語に大胆に組み込み、まさしく現実に「材を取った」物語として昇華されているのですね。
棋士の世代交代、女性棋士の立場(や表の顔と裏の顔の違い)、奨励会という場、観戦記者との関わり。それぞれの虚実の一線がどこで引かれているのかは分かりませんが、それは裏を返せば虚実が分からなくなるほど見事に物語へと落とし込まれているということ。フィクションの醍醐味ですね。
ここで気をつけておきたいのは、「ただリアルを提示するだけではない」ことは「リアルを一切反映しない」わけではないこと。
端々になるほどなあ、きっとこれは実情をダイレクトに反映しているのだろうなあと思わされる描写もまたあります。
中でも印象深かったのが、
「コンピュータ将棋が示したのは、将棋は強くなればなるほど奥が深まるゲームであり、歴代の名人たちが辿り着いた境地よりももっとずっと先に行ける」という事実と、「AIによる解析は、将棋というゲームにおける将来の伸びしろを先食いするような形を取る」という現実に両方言及されたこと。希望はある。しかしどの角度から見てもバラ色なものとは限らない。
「実際に沿っているか」「いないか」という単純な二項対立からは決して生まれてこないだろう、厚みとしなやかさの両立を感じます。
単純な二項対立ではないが故に、全く別の切り口、将棋という世界から一歩距離を置いた視点からの見方も織り込まれています。
たとえば、主人公・直江の将棋の師である師村がトップに立つ人間のあり方について話をする場面。
師村は、「自分が登り詰めると信じている人間は、頂点に立つ前からそれに相応しい行動を取ろうとする」と語ります。そして、これは「予定説」というキリスト教における考え方と似ており、資本主義がそこから生まれたと考える学者もいる……という説明がなされます。
ドイツの社会学者であるマックス・ヴェーバーの主著「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を踏まえた説明だと考えられますが、実にお見事です。
我々の大半が心のどこかに住まわせている儒教的な徳治主義、すなわち「立派な人が、その人徳で治める」というものではなく、一神教の神の摂理にも似た絶対の基準として勝敗が存在している。そんな将棋の世界の冷徹さが、鮮やかに描き出されています。
将棋の中だけで語らないからこそ、できることなのですね。
主人公が眼差すもの
将棋の話を、将棋の中だけで語らない。困難にも思えるこの物事を実現している要素は様々なものがありましょうが、主人公たる直江大の「視野の広さ」を今回は取り上げたいです。
彼は常に、周囲を細やかに観察しています。
記録係の若者が用意しているエナジードリンクを見て、うたた寝しないようにという努力を見出したり(中盤戦は「停止した映画の一場面を数時間見続けるような退屈さがある」そう)。
自分の方に目を向けてこず、面識のある相手の方ばかり見て喋るAIプログラマの様子から、人見知りであろうことを察したり。
幼馴染みにして天下御免のヤンキー女流棋士・江籠紗香と一緒に飯を食ってる時、彼女が何となくナプキンを折りたたんでいる所を眺めたり。
だからこそ、深く関わることもできます。
AI将棋ネイティブ、次世代型の天才でありながら将棋と殊更距離を取ろうとする少年・拓未の心の揺れに寄り添い、彼を将棋の世界へと導いたり。
奨励会ではいじめられっ子だった剛力の真の力を、誰よりも早く気づいて仲良くしたり。
成長しタイトル保持者として立ちはだかってくる剛力が、将棋盤の向こうで見せる仕草の一つ一つから、彼の内心を汲み取ったり。
大きく分けると「優しさの表れ」と言われそうなところかもしれませんが、必ずしもそうではないと僕は思います。
「優しさ」というのはパッシブに発揮されるもの、つまり優しさが必要となる場面で初めて姿を現すという側面があります。
彼の観察眼はアクティブなものであり、それ故にただ優しいだけではない気づきがその中にはあるのです。
「棋界の第一人者が後輩をどこに連れて行くか?」なんて着眼点から、第一人者たちそれぞれの個性を客観的に浮かび上がらせることもあれば、「いい人」であるが故に色々やらされ、伸び悩んでしまっている棋士の葛藤を感じ取ることもある。 悪人面の小男の政治家といういかにもしょうもなさそうな人間の言葉に、「その場を支配してしまうような独特の緩急がある」なんてことに気づいてしまったりもする。
ライバルである剛力が、彼に日本将棋連盟の理事になって自分を支えるよう持ちかけてくる、というシーンがあります。 序盤の重要なキーとなる場面ですが、読み進めていくうちにある意味で納得いくところもありました。
彼ほど目配り気配りができることは、責任を持って組織を運営する立場にはぴったりですもんね。
当代の英雄たる資格を持つ剛力から、「理事になって俺を支えろ」という誘いを受ける。展開を組み替えれば、「自らの限界を噛みしめ、現実と向き合い、やるせなさと共に身を引く」という形に持っていくことができるようにも思えます。それを「成長」とすれば、また違った形の物語も描けるかもしれません。
しかし適役だからと言って、それをやりたいかどうかはまた別です。
たとえ本質が「周囲をよく見ている人」であっても、実存――つまり自分が実際にどういう存在としてありたいのかということとは別の問題です。
実存は本質に先立つ。直江は周囲を観察することではなく、盤面と向き合うことを選ぶのです。これぞ主人公!
そこからの道のりは、決して平坦なものではありません。それだけに、本当に物語としての魅力が溢れています。
直江の歩みを追ううちに、彼の来し方にも触れることになり、更には彼が関わってきた将棋指したちの人生が浮かび上がってくるのです。
様々なものを受け止めながら進む直江の姿は素直に格好良く、いつしか応援してしまうこと間違いなしです。
とはいえ、格好いいだけでは済まないのもまた本作のいいところ。
ようやく辿り着いたここ一番の決戦、その土壇場で直江はまさかの邪念に襲われてしまいます。「人生のピークは今ここではない。もっと遠く、遥か未来にあるべきなのだ」という思いが変な方向に転がり、現世利益が次々頭に浮かんでくるのです。
上で触れた幼馴染みの江籠のことを直江は好きになってしまっているわけですが、邪念の中には彼女のことも混じっており、直江は決戦のクライマックスで「江籠だって振り向いてくれるかもしれない」なんて考えてしまいます。
振り向いてくれる! かもしれない! もうドストレートな心の声。
鳴いている蝉の声が聞こえなくなるほどに集中し没頭していたりもするのに、ふとよぎるのがこれです。しかも「かもしれない」ですよ。「振り向かせる」じゃなくて。
いじらしいばかりですが、いやあそれでもねと僕は肩を持ちたいです。やっぱり絶体絶命の局面でそれでも踏み止まるためにはそういうロマンが必要やねんて。論理的にはどうにもならないような瞬間に必要なのは、理屈以外の何か。
ネタバレにはならないと思うので書きますが、直江が絶体絶命の窮地に立たされた時、彼女はスマートフォンで戦いを追いながら応援してくれています。自分が戦っているつもりで考えてくれるのです。息が止まりそうになり、指を震わせながら。
好きな相手がそこまでしてくれたらね、何とか逆転してみせたいと思うよね。
それは読んでのお楽しみ
その結果がどうなるかというのは、やはり読んでのお楽しみということで。
結果だけ知っちゃうのはね、多分投了図だけみるようなもので、やっぱり一手一手追わないとダメなのですよ。将棋のことあんまよく知らないのに分かったようなことを言うのはちょっと危うい気もしますが笑、まあでもやはり直江と一緒に歩むのが一番ですよ。
「WEB本の雑誌」オリジナル文庫大賞受賞、 第35回将棋ペンクラブ大賞文芸部門大賞受賞と様々な栄誉に輝いた本作ですが、それも納得の一冊です。是非是非。