書くにあたっての火加減
小説を書く時には、とにかくすぐ書きたい人間です。
プロットも、必要とのことなので作成しますが、でなければ基本作らずそのまま走りだすのが一番楽。ヌウウまだるっこしい! どっちみち書けば分かるだろう! むしろ書いてみないとどうなるか分からんだろう! みたいな。
資料を読むのさえ、書きながら読み・読みながら書くという効率の悪そうなやり方が一番性に合っています。ハッと読みたくなったらガーっと読んで、バキーンと閃いたらドュアーと書きたいわけです。今までで一番数を読んだのは戦国昼寝姫の時ですが、あの時は多分狂人のようだったはず。
しかし今回は、「ここまでは資料を読むことに集中する!」と期限を決めてやっております。
あれこれ読んでいる内に興味関心が広がり結局期限までに読み切れない気配が濃厚ですが、それはそれとして尼野ゆたかとしては驚異的なほどの計画性です。
一体なぜそんなことになったのかと申しますと、突然そうしようと思い立ったからなのでした。結局計画的ではなかった……。
まあそう言いつつも、理由のようなものも一応あります。
実を申しますと、これまでの人生において軽はずみな性格について色々な人からしばしば指摘というか注意を頂戴してきました。つまり、「僕、小説のことになると人が変わったようになっちゃうらしいんだよね」みたいなアーティスティックなヤツではなく、平生から短兵急に行動を起こす軽挙妄動の徒なのですね。
十九二十の若者ならいざ知らず、仮にうちの母の人生でたとえると長男である尼野ゆたかが十九二十の若者になろうかという頃合いの年齢になったので、そろそろ猪突猛進一辺倒以外のアプローチを身につけるべきではないかと思ったわけです。
これまでは何するにせよ常時フランベみたいな状態でフライパンのままオラァと相手に突きつけていたところがあるのですが、その場合アツアツかもしれませんが料理というより火炎を食わせてるようなものですし、もうちょっとこう落ち着いて調理してみようということですね。
ちなみに論語と並ぶ儒学の主要テキストである易経には、「鼎(三本足の鍋のこと)が煮えたぎっておるのじゃ。熱すぎて取っ手が持てぬぞい。これでは中身が食べてもらえぬ。雨にあてて冷やすのじゃ馬鹿者」みたいなことが書いてあります。*1人生の大事なポイントは大体四書五経が先回りしている……。
*1: 「鼎の耳革(あらた)まり、その行塞がる。雉の膏食(くら)われず。方(まさ)に雨ふらんとして悔を虧(か)く。終に吉なり」。岩波文庫「易経」、角川ソフィア文庫「ビギナーズクラシックス 易経」を参照。実際には馬鹿者とまでは言ってない