【ネタバレ】「神様の恋愛相談請け負います」付記 尼野ゆたかと協力者の取材日誌その8 ~いろいろ編 前編~
さて、ばたばたしていて随分空いてしまいましたが、取材日記の続きを。(なにをバタバタしていたのかもいずれまとめますね~)
今回は、「神社が直接出たわけではないけれど、ゆかりの神様が登場する」のでお参りしてきた神社を紹介しようと思います。画像はタップなりクリックなりすると大きくなる……はず。
まずはこちら。奈良県は宇陀市にある八咫烏神社です。
一緒に行ってくれたのは妹夫婦。ありがたいことでありました。
車馬で乗り込んではならんということで、車を降ります。
この表現はたとえば伊勢神宮の月讀宮でもありまして、中々に印象深いものでした。考えてみると、作中で東京の愛宕神社に某英国の諜報機関員が車で参拝するというあの立ち回りは、この辺の言い回しからインスピレーションを得たのかも。
二ノ鳥居の前辺りで振り返った眺めです。田んぼに挟まれた参道。いやあとても味わい深いですね。お祭りの時とかどうなるんだろう。
サッカー日本代表関連のオブジェがあったり。
中々に愛嬌のある面立ちですね。
こちらは拝殿。神紋は葵紋のようですが(丹羽基二さん『神紋総覧』にはそうありました)、一般的な葵紋とは雰囲気が違いますね。変わり葵って感じでしょうか。
境内はとても静かで穏やかな雰囲気でした。中々気軽には行けない所にありますが、それだけに行った値打ちがあったなあと感じております。
次はこちら。兵庫県西宮市の日野神社。社叢(鎮守の森)は県の指定天然記念物です。
戦国時代には、河原林氏というお侍が拠る瓦林城なるお城があった場所だったりもします。
由緒には、河原林氏が尼崎の富松城(とまつじょう)も治めていたこと、そして1570年に三好氏と戦って瓦林城が落城したという話が載っています。
ちなみに富松城は大名が本拠地として居座る城というより砦というか、交通の要衝に置かれた防衛拠点(+町)という感じだったみたいなので、河原林氏が治めていた時期もあったと考えることもできるそうです。
さて1570年というと、丁度信長包囲網と呼ばれるものが成立した時期ですね。一向一揆(本拠地である石山本願寺は今大阪城が建っている場所にありました。敷地内に石碑とかあります)、近江(滋賀)の浅井氏、越前(福井)の朝倉氏などの猛攻を受けた信長は、天皇の勅命を仰いで講和するところまで追い込まれました。瓦林氏の戦いは、その中の一つとして位置づけられるのですね。
瓦林氏が戦った三好氏はかつて近畿一円を支配し、当主の長慶は最初の天下人になったと言われる程の権勢を振るっていた一族です。
しかし、長慶は1560年に死亡。十年経ったこの頃には中部地方からの信長の侵略を防ぐことができず、本拠である阿波(徳島)まで撤退することを余儀なくされていました。
そんな三好氏が信長包囲網に合わせてか反撃に出て、そして勝利した戦いだった、というわけですね。
瓦林氏がなぜ信長方に立ったのかまでは書かれていませんが、前年の1569年には信長による軍事費供出の要求をはねつけた尼崎の町(当時は町人~寺の檀家衆による自治が行われていました)が焼き討ちにあったり、丁度同じ頃に繁栄を極めた商人都市・堺も信長の軍事的圧力を前に独立を放棄したりという情勢だったので、その辺りもあってのことなのかな~。
長々と語ってしまいました。わたくし実は戦国昼寝姫という戦国時代を舞台にした小説を書いておりまして、三好氏や富松城などあれこれ調べまして、その話が色々と思い出されまして……。
こちらです。現在一巻目が刊行されております。興味がおありの方は是非どうぞ。
さて話を戻しまして。なぜ日野神社を訪れたのかと申しますと、
こちら。愛宕神社があるからなのでした。先程触れました、出世の石段があるあの愛宕神社ですね。
東京にはちょっと行ける状態ではなかったので、やむを得ず近場でお参りしたのです。
愛宕神社というのは火伏、要するに火事やらの災いを防ぐよう祈るための神社で、それだけにあちこちにあるのですが、割とほこらみたいな感じのものが多く、お参りしようにも手を合わせるくらいしかできなかったりするんですよね。
すぐそばに住んでいるわけでもない人間としては、やはりなにがしかの手続きを踏みたかったので、ご覧の通り賽銭箱があるこちらにいたしました。
ちなみに日野神社の鳥居を見てびっくり。貞享五年のものです。貞享五年! つまり1688年!
今回回った神社の中ではトップクラスに古かったのではないでしょうか。世界史的には名誉革命、日本史的には生類憐れみの令の辺です。ぶったまげましたね。
何がびっくりって、ここいらは阪神大震災の被害が大きかった辺りなんですよ。そんな中立ち続ける鳥居。いやーすごいです。
津門神社。つとじんじゃと読みます。同じく兵庫県西宮市の神社です。
こちらの柏紋、あえてこういう表現の仕方をしているのは石持地抜きのようにも見えますが果たして。
やって来た理由はこちら。オモイカネノカミにお参りするためです。作中気象神社を出したのですが、これまた東京でして。
四柱推命やってらっしゃるそうです。宮司さんの個人スキルでしょうか。
雨が降っておりまして(またかい)、いまいち写真がうまく撮れませんで。本殿を写した写真が一番まともだったのであげておきます。
そんな雨の中でも、近隣の住民と思しき方々が通りすがりにお参りしてらして、地域に根付いた神社なのだろうなあと感じました。
尼崎藩の領地を示す石碑が残されていました。尼崎の西隣にある西宮に「ここより西は尼崎領」という石碑が置かれてるのも不思議な感じですが、江戸時代前期は酒造で有名な灘(西宮より更に西、神戸ですね)の方まで尼崎藩の領土があったり、酒造業の盛んさに目を付けた江戸幕府が権力に物を言わせて直轄領として召し上げたりとか、色んなことがあったそうです。
地元周りの神社だと、ついつい関係ない話もしてしまい長くなってしまいました。次がラスト。陽輔たちが旅したところについて触れていこうと思います。あと尼野ゆたか的氏神様。お付き合い下さっている方々、誠にありがとうございます。