くたびれたら本を読んでましたという話
年が明けてからというもの、なにかとえらい目に見舞われておりました。
一つ一つ乗り越えて(まだ絶賛取組中のものもありますけども)どうにか今に至るわけですが、その最中様々なエネルギーの枯渇を感じまして、対策としてTwitterをしばらく離れておりました。
SNSは大変
山盛りの課題を解決すべく、ん~これはしんどいなあ~というものを一旦下ろしたわけですが、Twitterもその中に入っていたというわけです。
Twitter(というかSNS)というのは色々な人が色々なことを言う場でありまして、それがいっぺんに混ざることで様々な切り口の「いま」をタイムラインに流してくれます。
そこがきっと醍醐味の一つなのでしょうが、息が上がっている時にその流れについて行くのはとても困難でした。
誰かとやり取りしたりするのは、全然つらくないんですよね。どっちかというと会話ですし。
ただなんというか、他愛ないことでも何でもひとたび気になれば、しつこく考えすぎるところはあるかな……と。折しもそういう傾向はあるんじゃないかという指摘を頂戴したこともありまして、少し長めに離れておったわけです。
かといって難題に二十四時間一週間休みなく向き合っていたわけでもなく(そんなことをしたら死ぬ)、しばしば息抜きもやっておりました。
それが何かというと、読書でありました。
本は落ち着く
「読書は心に落ち着きを与える」という言葉があります。「ひとたび読書の習慣を得れば、習慣があらゆる情念を鎮めてくれる」とも続きます。
僕はこれを読んだ時「逆では……落ち着いてるからこそ本に向き合えるのでは……」なんて思っていたのですが、いやいやそんなこともなく、確かに気持ちを安らげてくれるなあと感じることがありました。
具体的に何かというと、読書のペースが自分次第なところ。調子がよかったり余裕があったりすれば勢いよく沢山読んでいいですし、そうでなかったらちんたらページをめくり適当にやめてもいいわけです。
当たり前のことですが、この自由さがとても心地よかったのですね。本はこちらに寄り添ってくれるのです。
映像系のコンテンツは最低限のペースが決まってますし(倍速にしたり半分にしたりしたら本来の味わいが薄れる)、音楽系のコンテンツは途中でやめづらい(3分の曲を1分42秒で一時停止して次の日にそこから再生しても、同じように楽しめるかというと難しいでしょう)。それを思うと、本当に自由が利く営みだと思います。
また、他者が介在しないところも気軽でした。人と話す時にはやはり相手のことを考えねばならないのですが、本と語らう時にはそういう気遣いも無用です。
最近、本への線引き書き込み等を再開しまして、読んでる最中の自分の頭の中を本なりルーズリーフなりに書き付けるようになり、よりその効果を実感することもありました。
本はたまに殴ってくる
でも、一般理論といえば最近こんなのも出たそうなんですよ。