北原白秋「邪宗門」を少しずつ読んでいるという話
北原白秋の邪宗門を少しずつ読んでいます。
「本来、詩は論ふべききはのものにはあらず」
というか少しずつしか読めない。毎回そうですが。
北原白秋本人が冒頭で「俺の詩に理屈を求めるな」的なことを言ってますし(「予が詩を読まむとする人にして、之に理知の闡明を尋ね幻想なき思想の骨格を求めむとするは謬れり」)、言葉を用いて表現されているイメージをそのまま受け取ろうとしているわけですが、するとダークで退廃的な情景がどばどば流れ込んできて胸焼けしてしまうわけです。こは邪宗門の古酒なり……サンタマリヤ……。
高橋源一郎が詩や俳句の読み方について「そこでは、ことばでできた、そこにある豊かな世界を味わえばよろしい」と言っていて(『「読む」って、どんなこと?』NHK出版)、ほんとその通りだよなと思って指針の一つにしているのですが、その通りに邪宗門をくぐると大変な目に遭ってしまう……
悲しいに決まってるがな
たとえば有名な「空に真赤な」。教科書にも載ってたような。載ってなかった?
空に真赤な雲のいろ。
玻璃(はり)に真赤な酒の色。
なんでこの身が悲しかろ。
空に真赤な雲のいろ。
七五のリズムで四行、「ろ」で脚韻。とても親しみやすいつくりです。人口に膾炙するのもよく分かります。しかし、これにしてもあまりにもあまりにも。
空が真っ赤に染まるのは朝焼けか夕焼けですが、グラスに赤い酒が注がれているんですから朝ではなく夕方でしょう。
すると、この詩の刹那の中で交錯している赤色の行く末はひどく暗澹としたものに感じられます。夕焼けは闇に呑まれて消える。酒もまた飲まれてなくなる。後に残るのは真っ暗な夜と憂鬱な酔いだけ。実にヘヴィで最高にいいのですが、まあ立て続けに浸るのはきつかろ。
読む度に、「なんでこの身が悲しかろ」というのは強がりでしかないように思えてなりません。そもそも、本当に悲しくない人に「どうして~だろうか」という反語はあり得ないわけで。当人からか他人からか知りませんが、「悲しくないのか?」という問いがあったから、そう問わねばならぬだけのなにかがあったからこそ生じる言葉じゃないでしょうか。
まあ、厳密にいうと「本当に悲しくない人」という定義は誤りですけど。そんな存在はありえない。
「あたたかに海は笑ひぬ」
とはいえ、ひたすら大理石(なめいし、とルビが振られます)やらヸオロンやらと共に描かれるそういう世界が広がっているばかりでは勿論なく。
読み進めていくと、もっと違う「内部生活の幽かなる振動のリズム」を感じることができるわけです。
いま聴くは市の遠音(とほね)か、
波の音(ね)か、過ぎし昨日か、
はた、淡き今日のうれひか。
「夕」から。同じ夕方でも随分と違う、ほのかなやるせなさが大変いいです。
かで刻む五七調な一方、読点の位置が毎行違ってて拍が変わるとこも好き。
現実のさざめきから過去に飛び、そして今の感情にうつる。つれづれの物思いの移ろいを言葉にしたかのよう。いいですよね~。
具体的に思い浮かんだのはDissectionの「Storm Of The Light's Bane」
最後は怪奇というか恐怖というかそういう何かがてんこ盛りな「灰色の壁」が迫り来て、そこで終わらず「失くしつる」という短い詩で締めくくられるのもいいです。
失くしつる。
さはあるべくもおもはれね。
またある日には、
探しなば、なほあるごともおもはるる。
色青き真珠のたまよ。
エクストリームな(≒デス声でグワーとかいう)タイプのメタルバンドがしばしば感傷的な小曲をアルバムのラストにもってくることがあったりするんですが、そのしみじみとした哀しさや寂しさに通じる味わいを自分は感じます。
ヘヴィメタルと北原白秋は交わらんだろうというむきもありましょうが、メタル好きが邪宗門読んでんだからそりゃ交わりますよ。大目に見なさい。
あ、ちなみに青空文庫の本は結構Kindle化されてて、これが多分一番お手軽で読みやすいと思います。おすすめ。