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あの図書館の彼女たち

ジャネット・スケスリン・チャールズ著、高山祥子訳「あの図書館の彼女たち」。友人の書店員様におすすめ頂いた一冊です。

 

実際映画にできそう



「ナチス占領下のパリ。苦しくてもわたしたちには愛する本があった」。
帯に踊るのは、まさしく映画のような惹句。

ここからは「邪悪なナチと戦って文化の素晴らしさを守る」という印象を受けます。
しかし実際に読んでみましたら、勿論その要素がある一方で他にも色々な何かが描かれているように感じました。
それは人のもろさ、あるいは美しさ、醜さなど様々ですが、
本という存在が物語を軸として貫き、ブレのない芯の通ったものにしています。



心に残る場面が多い本はずっと付き合える本

好きな場面が沢山ありました。たとえば冒頭、主人公のオディールが司書採用の面接を受けるところ。


彼女は質問に対して色々考えます。むしろ考えすぎます。一つの質問に対して五行十行分色々言葉が溢れてしまいます。どれも大切で、簡単に要約できるものではないから、溢れかえってしまうのですね。
そういう奥行きが深すぎる人間を受け止めるのは、沢山の言葉を綴り合わせて生み出す文章であり(手紙を提案されたオディールは「書く方が簡単だ」と言います)、そしてその文章を繋げていくことで生み出される本なんですよね。本に関わるために生まれてきたような人っていますよね~。


必ずしも社交的でない彼女が、司書の仕事を通じて様々な人との交流を重ねていくわけですが、その場面の一つ一つも素敵でした。
本は人を繋ぐ、とはよく見かける言葉ですが、それが美しく楽しく描かれています。素晴らしい。
ちなみに、同僚に髪のお団子部分に鉛筆挿してるミス・ウェッドってお姉さんがいて、彼女がとても魅力的なんですよね。映画化されたら必ず一定のファンが付くでしょうね……僕とか……。



「闇」はすぐ隣に

勿論楽しいことばかりではなく。
ナチスドイツによる侵略が現実のものになるにつれ、それまでに小説の文章がまとっていた楽しさはどんどん薄れ、重苦しい空気に取って代わられていきます。
ナチスは文化の弾圧者としての横顔を持っているので(宣伝相であるゲッベルスは、アインシュタイン含むユダヤ人の著作物を焼き「これでユダヤのインテリどもは終わりだ」と放言したといいます)、司書であるオディールは仲間と団結してそれと戦うことになります。

そして、オディールはまた人の心の暗い側面にも向き合うことになります。
それは、ゲシュタポ的な「悪者」がひたすら悪事を働くみたいな単純なものではありません。
ナチスの支配といういびつな状況が、本来表に出なかったはずの闇を引き出し、その「闇」が様々なものを破壊していくのです。
これが本当にヘヴィで。胸が痛む、などという安直なものではなく、本当に己に問いかけることがしばしばありました。「あり得る」手触りが重いです。



斯様に厳しさをはらんだ物語ですが、決して後ろ向きではありません。


「他者の立場から物事を見せるような不思議なことのできるものは、ほかにないからです。図書館は本によって、ちがった文化をつなぎます」


オディールは、戦地の兵士に本を送る作業に従事します。その意味を訊ねる記者に、オディールはこう答えました。
他の場所で引用されるエミリー・ディキンソンの詩の一節「希望とは、魂にとまった、羽根のあるもの」と合わせて、
この物語が持つ前向きな強さを象徴していると僕は思いました。




その他好きなところ

現代と過去の時の流れを対比する形で進行する構成の見事さなど魅力は沢山ありますが、様々なユーモアを交えたセンテンスが最高でした。


「パパは、間違った電車に乗って予想外の場所についてしまったひとのようだった」
「フレンチ・トースト。フレンチ・キス。フレンチ・フライ。素敵なものは、みんなフレンチがつく」


といったちょっとした感覚や様子をキラキラ輝かせたり、
レファレンスサービスで十六世紀のイタリアについて調べることとなった主人公が本を漁る際に

「わたしたち三人は書架の間を動き回りながらヴェネツィアに向けて出港した」

なんて表現が飛び出してきて、ああ調べ事ってそうだよなあなんて納得させてくれたり。
ただただ「分かりやすい」単純な文章へと訳出するのではなく、そのニュアンスまで伝わるように日本語へと移し替えたのだろう、とても見事な文章でした。


また別物ではありましょうが、渡邉義浩という中国史の学者さんが、

「日本では漢文を訓読する文化を育んできた。漢文訓読は日本語の骨格をつくり、贅肉を削り取っても来た。それを元に多くの学術的に優れた成果を生み出してもいる。自分はそれを継承する者であるので、書き下しを大切にする形で著述する」

という旨を「『論語』 孔子の言葉はいかにつくられたか」(講談社選書メチエ)で書いていたことを思い出しもしました。
ある文章を他の言語に訳するという営みは、単に理解できるように薄めるのではなく、訳するにあたってまた新たに命を与えていくことなのだろうなと。



本について

「本」という存在が持つ様々な要素が感じ取れるところも、本をテーマにした本として素晴らしい部分でした。


たとえば、オディールと弟のレミーとの手紙で触れられる本への書き込み。

本への書き込みはマルジナリアと呼ばれ、
夏目漱石や西園寺公望公など全集や伝記にそのマルジナリアが記録されている人物もいます。ポーのも本になってるのか。洋の東西を問わないのですね~。

レミーは「余白に感想を書き込むなんて、頭がいいな! ページをめくるたびに、一緒に読んでいるような気分になる」と書いています。一方僕は過去の自分と一緒に読んでいるような気持ちになり、しばしば「それは違うだろう」と思って消したり修正したりするはめになります。浅さに恥じつつ、「いや、少しは成長したのだ」と己に言い聞かせつつ。



たとえば、蔵書票。
そっか~西洋は蔵書印じゃないですね考えてみたら。
登場する蔵書票にはラテン語で「アトルム・ポスト・ベルム、エクス・リブリス・ルクス」(戦争という暗闇のあとに、本という光がある)という言葉が記されています。
この美しい言葉を蔵書票という形で本に添える行為には、本そのものに対するこだわりというものが強く感じられます。


国立国会図書館の蔵書をオンラインで読める「国立国会図書館デジタルコレクション」というサービスがありまして、
それを用いて少し昔のことについて調べていると、国立国会図書館の前身である帝国図書館の蔵書と出会います。
そして、そういう本には篆書体で「帝國圖書館藏」と彫られたバカでかい蔵書印がズゴーンと捺されているのですね。
これにしても、蔵書印の本来の機能を考えたら何もそこまでしなくともいいはずですが、あえてバカでかいものでズゴーンとやっているのは、やっぱりこだわりを反映したものなのだろうなあと。



ちなみにこんな感じ。ズゴーン。
文字としての漢字は単体で表現力を持っているので、すごい迫力があります。



紙の本は終わりだなんだってもう何十年も言われてるのにしぶとく生き残っているのは、やはりその存在自体が一つの文化であり、まつわる物事にまで豊かな人間の創造性や営為を呼び起こす土壌でもあるからかなと考えました。
作中で語られる「本はわたしたちよりも長く生きる」という言葉には、千鈞の重みがあると言えましょう。




本気ですすめてもらった本を読むのは楽しい





というわけで、とても楽しい本でした。おすすめありがとうございました~!

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