篠原悠希さん「親王殿下のパティシエール 7 糕點師の昇格試験」。(ハルキ文庫)
いよいよシリーズも佳境。
歴史の荒波は西で断頭台の刃を落とし、マリーの心も真っ二つに引き裂きます。
一方東では名君をその位から退かせしめ、うねるがままにマリーへと襲いかかります。
激動するのは時代だけではない
哀しみ、またハラハラし。シリーズも七巻目となる今回ですが、読んでいて一、二を争うほどに気持ちが動いたように感じました。乾隆帝の曖昧な問いが生む緊張感なんて本当にリアル。そこに彼の衰えまでが織り込まれているかのようで、一つの場面で色々な感情や印象を味わうことができました。
息を呑んだのは、龍の工芸菓子ですね。東西が交差するこの物語を象徴するかのような、鮮やかなイメージの合一。
乾隆帝の「人間らしさ」を引き出すところなど、芸術としての本質に手を伸ばしうるほどに完成度が高まっていることが伝わってきます。
その一方で、食べ物としての本分を全うすることはかなわなかったところに、なんだかやるせなさも感じます。両立は難しいのかな……。
交わることはぶつかることでもある
以前、このシリーズは東西の交差する物語だなあと申しました。その繋ぎ目がまさにマリーなわけですが、
小蓮の視点で振り返られるこれまでの物語はただただ楽しいばかりではなく、めざましいばかりでもなく、ほろ苦さや胸の詰まるような感じもありました。
でも、そういう部分を乗り越えるからこそ本当の友情と言えるのでしょうし、実際乗り越えているのです。互いの芯の部分、文化として生まれるその前から脈々として受け継がれる考え方。それをどちらかに強制的に同化してしまうのではなく、尊重する。
ただし、マリーの側は激しく揺さぶられているわけですが。「お部屋さま」への受け止め方に一時でも変化が生まれるところなど、強くそれが現れているように思いました。簡単に答えが出ない。
之を哭して働す
そしてその奥行きある物語世界を支える土台となるのが、丁寧かつ時に繊細に表現される様々な文化です。
マリーと小蓮の祈りの描写の違い、あるいは避諱の習慣(清代は特に大変なんですよね確か)、同じ国でも民族によって違う礼の仕方。
中でも、とある人の死に際し玉耀院に泣き声が響き渡るシーンなど、圧倒されましたあ。
声を上げて泣くことを礼とする文化である、と書くだけなら容易いところですが、
その文化が本来確かに気持ちの上に成り立っているものなのだというのを感じさせられたシーンでした。
そして、その「文化」の現れの最たるものがレシピ本の制作ですね。
本の使命の一つに様々な文化を記録し広く伝えるというものがあり、マリーのレシピもまた一つの文化であるため、書籍化されることは極めて自然なことです。
そして、本は暴君に燃やされるなどの外部要因が無い限り後世に残り続けます。装丁についてのマリーの提案を聞いた永璘の喜びようも、然もありなんといったところです。マリーをして「一生忘れないと思った」と言わせしめるほどの笑顔!
食べられたらなくなってしまうお菓子に、永遠の命を与える。レシピ本は素敵だなあと感じるところですが、そういえば以前篠原さんが一番の夢としてこのシリーズのレシピ本という話をしていらした記憶があります。
その場合、上で触れました龍の工芸菓子の作り方もレシピ化されてしまうのでしょうか……読者が競って作るのでしょうか……ちょっと大変なことに……!?
尼野いわく、「ゆたか同盟を結びましょう。遠交近攻の妙案です」
さて一つ、ちょっとおまけ的になりますが。このシリーズには豫親王裕豊なる人物がおりまして、今回ちらりと登場します。
マリーにご執心のやんごとなき身分を持つ人物である彼、よく見たら名前がどっちもゆたかじゃないか……。マリーにご執心なところもまったく一緒!!
奇遇だなあ! と親しみを覚える一方で、叱咤激励もしたいところです。マリーほどに立派で素敵な女子に懸想するなら、もうちょっとこう、色々頑張ってほしいもの。
宗室科挙とかあるじゃん! 孤独に打ちひしがれるマリーの支えになろうという気概を見せないか! こっちのゆたかは紙の向こうで一喜一憂するしかできないんだぜ。しっかりしたまえよそっちの裕豊!