奇譚蒐集録—鉄環の娘と来訪神

 清水朔さん「奇譚蒐集録—鉄環の娘と来訪神」(新潮文庫nex)。

 

 

 


押しも押されもせぬ人気シリーズの第三作目。著者様にご恵投賜り拝読しました。




巻末の参考文献も興味深い

幕開けから、物語の舞台についてじっくり丹念に語られていきます。

その幅は蕎麦の歴史から「信濃」の語源に至るまで広く深く、読者を一歩ずつ作中へと引き込んでいきます。作中に載籍浩瀚という表現がありますが、まさしくその四字熟語を地で行くような執筆風景であったかと推察します。

ともすれば展開の早さ分かりやすさばかりが求められる現今にあって、ここまで腰を深く落とした形で進むのは希有では。

一方でその念入りさは、衒学的な鼻持ちならなさとは無縁です。何とも凄いことですが、おそらくはしっかりとした目的意識の元にコントロールされているからかなあと。

目的が何かというと、本作が「華族」や「書生」が存在する時代が舞台であること、またテーマたる奇譚の基になるのが「民俗」であること。つまり、「現代」とは違う時間空間で紡がれる物語であることを読者にしっかりと伝えるため、という方向でしっかり収束している風に感じます。僕の想像に過ぎませんが。



民俗という言葉への真摯さ

民俗、という言葉を辞書で引けば、「古くから民間に伝承してきた風俗・習慣」(大辞泉)とか「人々の伝統的な生活文化。民間の習俗。民族の伝承文化」(広辞苑)という風に説明されています。

これを換言すれば、『今我々が何となく保持している現代的な価値観、ぼんやりと参照している是非善悪の基準と異なるところに根ざした「仕組み」「ルール」である』、とも表現できましょう。

その座標の違いを活かし、本シリーズで登場する「民俗」やそれにまつわる様々な出来事は読む者に強烈なインパクトを与えます。今回はどうだったかというと、より人の業ともいうべき部分にフォーカスしたものであるという印象を受けました。

淫靡とも言える関係性、近代の理性が蓋をした情欲が揺らめく場面などにそれを強く感じました。屈折した欲望を持つ側の内面を、男女のいずれにおいても描くことで、単なる怪物のような異常者ではなく業の深い存在であるという風に演出できていると思います。

一方で、その「民俗」的なものを不気味な奇習と指さして面白がる物見高さとも無縁です。それが何のために存在し受け継がれてきたのか、その仕組みの軋轢が生み出す苦しさ哀しさとは如何なるものであるのか、真剣に向き合って書かれているのです。

一作目「弔い少女の鎮魂歌」における洗骨の扱い方から既に表れていたその姿勢は、今回も健在でした。どこか物悲しい雰囲気、まさしく枷の如き風習にがんじがらめにされた人々が纏うやるせなさからは、面白おかしく消費するのではないという真摯な姿勢が感じられました。








いくつも印象深い場面がありましたが、今回特に取り上げたいのが真汐と黒曜の衝突です。

二人のぶつかり合いには、近代以降の意味での「孤独」がベースになっていると解釈できます。そこが面白いのです。



「近代以降、人間は一人一人の自分と他者を独立した個人であるという風に認識するようになった」という考え方があります。
この考え方に基づけば、人はそれまでの古い社会のくびきから解き放たれる一方で、個ではなく集団の一部分として存在することで享受できていた安心感を喪ってしまいました。自由になったのと同時に、孤独にもなったのです。

それを踏まえて考えれば、「帝大の講師の書生」という作中時代の最先端をいく立場にある真汐から、極めて「古い」世界に囚われている黒曜に向かって、

「僕はあなたではない。だからあなたの苦しみは分かりません」

「あなたの痛みがわかるのはあなたしかおらず、僕の痛みがわかるのも僕しかいません」


という言葉が発されるシーンは、近代と前近代との相剋とも捉えられるのではないでしょうか。構図として実に見事です。



真汐が「僕の主」から聞いた言葉と前置きする形で、


「儀式とは人が作るもの――それを受け継ぐ者ならば、作り変える権利もある」

  時代を経るにつれて、変わっていくもの、変わらざるを得ないものもある。それを受け継ぐものが作り変えることになんの不都合があろうか、と。


と進歩主義的価値観を主張する場面と合わせてみれば、よりそのコントラストは明確となります。素晴らしい!



ちなみにここまで書いて気づきましたが、そんな真汐であるにもかかわらず廣章を「主」と封建的な表現で呼ぶ点は、明治から大正にかけてという過渡期が舞台であることを反映していると読めますね。細かいところまで行き渡っているなあ。脱帽です。




若い学問なのですね

「世界大百科事典」における「民俗学」の項目によると、フォークロアfolklore(英語で民俗学を指す)という語は1846年に生まれたもので、日本では1914年にその研究が始まったとのことです。

民俗学ミステリと銘打つ本シリーズは三巻現在で大正三年(1914年)であり、まさにリアルタイムでその歩みを共にしているわけですが、行く先はどんなところにあるのでしょうか。

「操練所」という存在の扱い方からすると、シリーズはこれからもしっかり腰を据えた形で続くと考えていいはず。この謎は、どのように解き明かされるのか。その時、物語はどんな姿を見せるのか。楽しみに待ちたいものですね。

きっと息を呑むような、胸に突き刺さるような、そんな展開が待ち受けているのでしょう。しかし個人的には、本作冒頭において廣章が毅然として饅頭を所望していたあの感じも、時には読みたいなあと思ったりします。あれは面白かった。