西荻窪ブックカフェの恋の魔女 迷子の子羊と猫と、時々ワンプレート

 菅野彰さん「西荻窪ブックカフェの恋の魔女 迷子の子羊と猫と、時々ワンプレート」(集英社オレンジ文庫)。ご恵投賜り拝読しました。





菅野さんにとって新しい挑戦であり、大変時間をかけて書かれたと伺っておりました。その努力と熱意は、菅野さんならではの作品として結実しました。

 

ブックカフェの「秘密」

悩みを聞いてもらえて、美味しいご飯を用意してもらえて、素敵な本の紹介もしてもらえる。
作品の舞台であるブックカフェ「朝昼夜」は、そんな至れり尽くせりの空間であるかのように思えます。しかし実のところは、ただただ癒やされるだけの幸せスペースではありません。


華やかなお菓子や手の込んだ料理の数々、季節感も織り込みながら描写されるお洒落なファッション、そういう「素敵」なものたちの間隙に、「嘘がある」という不穏な響きが差し込まれるのです。

その嘘の正体は、素敵な空間を主宰する主人公・月子が、実のところ「魔女」ではないということ。月子は悩みを何でも解決してくれる便利な存在ではなく、彼女自身が大きな苦悩と直面している一人の人間にすぎないということです。

この真相が明確に示された時、この物語はこの物語としての姿を現します。




悩みの一つ一つに、彼女は「一生懸命」というスタンスで臨みます。それは取りも直さず、彼女が完璧とは程遠く、訪れる人が自分の悩みを放り出して投げ預けられるような余裕溢れる存在ではないということでもあります。

定期的に挟まれる「コンビニの女子高生の噂」というギミックには徐々にコミカルささえ漂い、深刻な手触りを回避しています。しかし、噂が作り上げる虚像が実体と乖離していき、月子自身の悩みはそのまま取り残されるという展開には、やはりほろ苦くも哀しいものが感じられてなりませんでした。



言葉にならないものを言葉にするということ



そんな彼女が、「二階の山男」との対話を通じて自分の感情と向き合っていくシーンの数々は、いずれもが白眉であると言ってしまいたいです。

「イライラorザワザワ」のように、中々言葉にできないものに向き合いその正体を掴もうとする。「気持ちを整理する」という、時間のかかる作業を丹念に饒舌に描写する。そんな場面は前もって整頓された感じがなく、アドリブ的なニュアンスを漂わせながら進んでいくやり取り(音楽だと「スポンテニアスな」なんて表現しますね)は、予定調和とは正反対のライブ感に彩られています。


その生き生きしたやり取りに歩調を合わせて読み進めていくうちに、更なる事実が明らかにされていきます。それは「山男」のもう一つの横顔であったり、あるいは彼女自身の苦悩の正体であったりします。



その過程で、僕はこの小説は「月子の物語」なのだなというふうに感じました。

彼女自身の物語であるが故、他の誰よりも彼女自身の苦悩に重心が置かれています。
そして、そこに一つの区切りがもたらされた時、物語は幕を下ろすのです。


彼女は魔女ではなく、他に本物の魔女がいるわけでもなく、彼女の抱えるものには彼女自身が立ち向かわねばなりません。

だからこそ、それを乗り越えられた時には深く静かな感動があるのです。彼女自身が、彼女自身の力で乗り越えたことに、胸を打たれるのです。



そう振り返ってみて気づいたのですが、この小説は「自分のことは自分で悩む人のための物語」である、ともいえるかもしれませんね。助けてもらうことはあっても代わってもらうことはしない、自分の人生を自分で生きることへの賛歌であると。


読書について

もう一つ、柱として据えられている「本を紹介する」という部分についても触れてみたいと思います。


ブックカフェ、と大々的に銘打たれているだけあって、「西荻窪ブックカフェの恋の魔女」には本の要素がふんだんに盛り込まれています。単にカタログ的に陳列されるばかりではなく、もう一歩踏み込んでいるのですね。


作中で登場するある作品について、「楽しめる時期がある(≒限られている)」という問題提起がなされることもあります。あるいは、「あの主人公が大嫌い」と強い不満が示される作品もあります。

登場人物たちの会話の中でのことであるため、その意見に対する疑義についても同時に提起され、一方的な表明にならないよう配慮されています。物語が進むにつれ、違う切り口が提示されることもあります。


しかし、いずれも評価の定まった作品に対するものであり、また見解それ自体が明確であるため、読者には強いインパクトを与えるように感じられます。少なくとも僕は相当にガツンと来ました。



とある哲学者は、読書について「自分の頭ではなく、他人の頭で考えることである」と切って捨てました。その意見に賛同するかどうかはさておき、指摘として大変興味深いものです。

上記の名作への評価に関するあれこれが、まさに当てはまるのではないかと思うのです。
おそらくは菅野さんのうちに存在しているだろう見解が、菅野さんの考えが、登場人物の意見として伝わってくる。菅野さんの考えたことを、僕たち読む人間も考える。再びその哲学者の言葉を借りるなら、「仮借することなく……我々の頭脳に流れ込んでくる」のです。


その考えは、物語の中で呼吸する登場人物の言葉として流れ込んでくるため、無視できない重みを持って残ります。
なので人によっては、強い反発を覚えるかもしれません。疑問を持つこともあるかもしれませんし、「癒やし」とは明らかに異なる当たりの強さに面食らうかもしれません。

しかしそれは、この本を読むまでは知らなかった、生まれることのなかった何かだともいえます。「他人の頭の考え」が入ってくることによって、新しい何かが芽吹いたのですね。

知らない何かと出会えることとは、その出会った何かをどう受け取るのかということと合わせて、読書の醍醐味です。何か偉い人の言葉を引かずとも、これは断言できます。


そしてそういう意味で、月子とこの「西荻窪ブックカフェの恋の魔女」は、正しく本を紹介している、と言えるのではないかなあと感じるのです。朝昼夜を訪れる皆様は、是非とも耳を傾けてみてくださいませ。