戴天
千葉ともこさん「戴天」(文藝春秋)。もうすぐ文庫も刊行されますね。
「震雷の人」で松本清張賞を受賞しデビューされた千葉さんの第二作は、「震雷の人」同様に唐を揺るがした
また、安史の乱を引き起こした
では本作から入ると楽しめないかというとそんなことはなく、「戴天」は「戴天」としての揺るぎない魅力を持っています。
どちらから読んでも楽しく、どちらも読めばなお面白い。独立不羈の二部作とも呼ぶべき作品たちではないでしょうか。
宦官の存在感
様々な側面から迫ることのできる作品ですが、まず宦官を大きくフィーチャーしているところに触れてみたいです。
その存在の特殊性から、様々なフィクション作品で取り上げられることもしばしばな宦官。後宮で陰謀に関わったり、皇帝を陰から操ったりとインドアな形で取り上げられることが主ですが、史実を辿ってみると中々にアクティブです。
君命を受けて四方に使いしたり(海路でインド洋を渡ったり陸路でオホーツク海の辺まで行ったりも)、従軍したり(将として一軍を指揮した例さえあります)、大陸の南、東シナ海沿岸まで出張して税関みたいなとこで仕事をしたり(貿易で訪れた日本人僧の日記に登場したりする)と、必ずしも引きこもっているわけではないのです。
本作においては、その行動的な部分を前面に押し出して、宦官部隊として戦場の最前線で戦う姿が活写されます。
主人公・
この複雑さには、確かな取材の裏打ちを感じます。男性器を喪失したことによる様々な影響を臆せず描写し(「欲望が失われない」のも「噛みつく」のも事実だとと言われている)、「子孫を残すことを重要視する儒教社会において、それが不可能であるためにより蔑視される」という繊細な部分にも大胆に踏み込みます。
美しい歌声を響かせる場面ではカストラート(近代以前のヨーロッパにおける風習。声変わりを防ぎ歌声を保つためにボーイソプラノの少年を去勢した)を彷彿とさせ、ただ「宦官」というファクターに留まらず幅広く関心を持って調べられたのかもなどと推察いたします。
そしてそのような形で築かれた堅固な土台故に、「宦官」たちは一人一人の個性を花開かせます。それぞれに屈折を抱えながら、その折れ曲がった先へと進んでいくのです。
殺された我が子の復讐を誓いながら、その子供の顔が思い出せなくなる。そんな描写がなされる宦官が登場します。ただただ執念のみが残り、それに身を焼かれるようにして動いているのかと感じさせられる場面ですが、しかし彼の行く先は単純な復讐ではありません。あるいは「志」と呼べるかもしれない何かとなり、最終的には歴史の中の一コマとして収斂していくのです。あれは凄かったなあ。
美しい花は豊かな土壌にこそ咲くのだ
土台の堅固さは、宦官にまつわる物事以外においても至る所で垣間見えます。
軍議における武将の「重地です」という言葉は彼に「孫子」の素養があることを表し、
子供のごっこ遊びには三国志の趙雲のような有名どころのみならず、増長天に西王母など当時の文化を踏まえたヒーローがバランス良く採られます。(しかも後々効いてくる)
科挙において、受験者が求職活動の如き行いをしている描写。これも渋いところです。
凄くシステマティックで、徹底した試験の仕組みを持つことで知られる科挙ですが、それは後世になってからのこと。唐の頃だと未だ様々なところが未洗練であり、事前の人脈作りとか売り込みなんていうコネ社会丸出しのものが重視されていたのですね。それを、千葉さんはさりげなく活かされているわけです。
仏教についても、作り込みを感じました。我々が何となく共有している日本アレンジが施されたものとはまた異なる信仰として、その教義が物語に組み込まれています。「仏僧は仏の僕なのか、それとも皇帝の臣下なのか」ということで揉めたという話は史実であり、大変な論議を招いたそうな。
登場人物においても然り。楊貴妃や
彼はその堅固な節義によって後世にも名を知られるようになった人物で、数百年後に
このように豊かなバックグラウンドが用意されている「戴天」ですが、さっきから僕が繰り広げている類の冗漫さとは無縁です。
説明に紙幅を割かず、必要なことは必要な時に必要なだけ語る。物語のうちに吸収し、装飾ではなく筋骨として駆動させる。そんな形なので、楊貴妃って誰でしたっけという人でも全く引っかからず読むことができると思います。
何となく知っているところだけいくつか並べましたが、間違いなく上記以外にも様々な要素があり、僕自身そこにさっぱり気づかぬまま満喫しているわけです。なので断言できますワハハ。
「一緒に走れる」
「走る」こと。それが、重要なテーマとして物語を通じて反復されていきます。タイトルともなった「天を戴く」ことと共に、軸として物語を貫いているのですね。
それを象徴的するのが、皇帝の前で官奴婢が競争を行う場面です。要するに天覧マラソン大会的なものを開催するわけですが、そこに一人の侍女が参加します。
纏足の風習が影も形もない時代なので、女性が力強く大地を蹴って走っても(実際には大地というか結構山道ですが)何ら問題ありません。物語のキーパーソンでもある彼女は、見事な走りを見せます。
「走ると風が吹く」と彼女は言います。「とめどなく幸せな気持ちがあふれて、羽が生えたように身体が軽くなる」と。
そこに弾ける躍動感。颯爽とした姿の眩しさ。とある若者が彼女の姿にすっかり心を奪われてしまうわけですが、まあ分かるよ。すごく分かる。これは惚れ惚れしてしまう。
この生命感溢れる爽やかさが、「戴天」という物語を貫いています。
物語には恨みもあれば、裏切りもあります。怒り、哀しみ、屈辱、憎悪。正負で分けるなら問答無用で負な諸々の感覚感情が、嵐の如く吹き荒れます。
しかし決してドロドロせず、立ち止まってうじうじすることもなく、登場人物たちは走り続けます。
次から次へと立ち塞がる障害を蹴破り、手に汗握るようなスリリングな場面を切り抜け。激動する時代を、駆け抜けるのです。
安史の乱に勝者はいません。安禄山も、もう一人の反乱者である
夜明けぜよ! とかなんとか言いながら、新時代を目指せるような局面ではないわけです。
しかし、いやだからこそ、舞台として選ばれる意味があるのではと感じます。
滅びの美学、などという後ろ向きなものではありません。何かに殉じる、などという自己陶酔的なものでもありません。
あくまで生き抜く。走り抜く。不明確で不安定な時代に、自分という存在でもって立ち向かう。そんな強さが描かれているように、僕は受け取りました。
最初にも触れましたとおり、「戴天」はもうすぐ文庫化されます。まだ読んでいないという方は、これをきっかけに是非どうぞ。