文学フリマ東京「編集に怒られる!」

 来たる5月19日、東京流通センターで開催される文学フリマ東京において頒布される同人誌「編集に怒られる!」に寄稿いたしました。場所はえー01です。


 

表紙からお分かり頂けるとおりの錚々たるラインナップに加えて頂きました。
企画は最東対地さんです。


僕は「十字路に立つ者は」という小説を書きました。高啓という、実在した中国の文人を主人公にしたものです。

今回は、何でまたそんな小説を書いたのかという話をしようと思います。




最新刊「期間限定皇后」(二見サラ文庫様より刊行)を執筆するにあたり、中国の明の時代について少しだけ勉強をしました。

詳しいわけでもないので、読むもの読むものが新鮮で、もう調べることそれ自体が楽しかったです(その一部をブログに書いたこともあります。前編 後編)。

司馬遼太郎は、歴史を「かつて存在した何億と言う人生がそこにつめ込まれている世界」(『二十一世紀を生きる君たちへ』)と表現しましたが、まさにその通りで。一人一人の人物、一つ一つの記述の向こうに広がる世界には、想像力が刺激されてやみませんでした。


しかし、そうやって調べたものを何から何まで盛り込んで小説を書くというわけにもいきません。小説には小説の、「期間限定皇后」には「期間限定皇后」の世界があります。あくまでその世界をすくすくと育てるための肥料を得るために勉強しているのですから、そこをはき違えれば本末が転倒してしまうのですね。

そんなわけで、面白いなあ物語の霊感を受けるなあと感じた沢山のものを、ひとまず引き出しの中にしまい込んでおりました。こういうものは得てしてそのまま長い時間を引き出しの中で過ごし続けることになるわけです。
高啓にまつわるあれこれも、その中の一つでした。


元の末期から明の初期の激動期に生きた高啓の人生、そして彼の作品から、僕は様々な示唆を受けました。本当に面白く、また興味深いものでした。
しかし、得たものをそのまま作品として書いても、今すぐ発表するのは難しいなあ、それこそ編集様に怒られるなあというのが偽りのない手応えでもありました。


誤解のないように申し上げておきますと、各社の担当の編集様たちからは作品を本にすべく多大なご尽力を頂き、またご指導ご鞭撻を頂戴しております。それだけお世話になっているのに、更にややこしいものを見せるのもいかがなものかという話なわけですね。



ところが、今回この同人誌にお誘い頂けたことで、小説として形になったわけです。ひとえに最東さんのおかげです。どうもありがとうございます。




さて。最東さんは、企画編集だけでなく一本作品も執筆しております。大変挑戦的な作品です。僕はそれを読んで、とある文章を思い出しました。


明治時代も終盤のこと。上田敏という人物が、海外の新しい詩を紹介すべく、訳詩集「海潮音」を発表しました。ヴェルレーヌの「落葉」(秋の日の、ヴィオロンの、ためいきの~ってあれ)で有名な本ですね。
その序文にある、こんなくだりです。


坦々たる古道の尽くるあたり、 荊棘けいきよく路をふさぎたる原野にむかひて、これが開拓を勤むる勇猛の徒をけなす者はきようらずむば惰なり。


「坦々とした古い道の行き止まりあたりで、茨が道を塞いだ原野と向き合い、その開拓に取り組んでいる勇敢な人をけなすやつは、腰抜けでなければ怠け者だ」って感じの意味でしょうか。

まあ、正直を申しまして、最東さんの書いたやつは開拓なんて生やさしいものではなく、ナパーム弾で焼き払って石器時代に戻してからサーフィンするくらいアグレッシブな何かです。それに連帯を示してほんまにええんかいなという懸念はないでもないです。どっちつかずのエアリプとかするだけの方がええんちゃうか(ビビる怠け者)。

しかし、他の名だたる作家の皆様方もまた、それぞれの形で新しくまた強烈な何かを打ち出しておいでです。いやはや、これは逃げるわけにもいかぬ。やりたい放題やってやるしかない。



とはいえ、小説は読んで頂くことで完成するものです。自分の感じたものを書ききることと同様に、それを伝わりやすい形で表現することにも心を砕きました。初めて尼野ゆたかを読む、という方に読んで頂けると嬉しいです。

勿論それと同様に、これまで読んでくださってきた方々に手に取って頂きたく思ってもいます。特に「期間限定皇后」とは同じ素材を元に別々のものを作ったという関係にあるともいえるわけで、「期間限定皇后」を読んで面白いと感じて下さった方は是非どうぞ。


当日はブースに居ります。「期間限定皇后」他既刊も持っていきます。お買い上げ下さった方にはご希望下さればサインをいたします。お持ちの本を持ってきて頂いて大丈夫です。よろしくお願いします~。